「青の炎」と「白蝶記」
なにやら、「白蝶記」の評判が微妙だ。微妙というのはあくまでも主観で、客観的に見れば上々なのかもしれないが。芳しくない感想やら評判やらを意図的に取り上げて、この作品の良さをわかっているのは自分だけ的な優越感に浸りたいだけなのかもしれないが。やっぱり、どことなく微妙な気がする。
白蝶記が微妙だと言われる点のひとつとして、悪役の魅力が挙げられる。法月や魔王と比べ、小倉はたしかに悪役としての魅力が欠ける。では、法月や魔王にあって、小倉にはない魅力とはなんだろうか。カリスマ性だ。法月には権力の象徴として、魔王には自身の美学に裏づけられた、魅力があった。小倉の場合は、自分より弱いものを虐げ、自分より上のものには媚を売る、小物臭さしかなかった。しかし、それは意図的なものであると思う。法月が権力の象徴であったように、小倉もまた、閉鎖的な環境における理不尽さの象徴なのだ。そういったものを表現するのに、カリスマ性をもった悪役というのは適さない。小物臭さこそがふさわしい。だから、小倉が悪役でいいんです。
白蝶記 ―どうやって獄を破り、どうすれば君が笑うのか― (ダッシュエックス文庫)
- 作者: るーすぼーい,白身魚
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2015/11/25
- メディア: 文庫
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