大仙の若葉

たのしいアフィブログ

「青の炎」と「白蝶記」

 

 なにやら、「白蝶記」の評判が微妙だ。微妙というのはあくまでも主観で、客観的に見れば上々なのかもしれないが。芳しくない感想やら評判やらを意図的に取り上げて、この作品の良さをわかっているのは自分だけ的な優越感に浸りたいだけなのかもしれないが。やっぱり、どことなく微妙な気がする。

 白蝶記が微妙だと言われる点のひとつとして、悪役の魅力が挙げられる。法月や魔王と比べ、小倉はたしかに悪役としての魅力が欠ける。では、法月や魔王にあって、小倉にはない魅力とはなんだろうか。カリスマ性だ。法月には権力の象徴として、魔王には自身の美学に裏づけられた、魅力があった。小倉の場合は、自分より弱いものを虐げ、自分より上のものには媚を売る、小物臭さしかなかった。しかし、それは意図的なものであると思う。法月が権力の象徴であったように、小倉もまた、閉鎖的な環境における理不尽さの象徴なのだ。そういったものを表現するのに、カリスマ性をもった悪役というのは適さない。小物臭さこそがふさわしい。だから、小倉が悪役でいいんです。

 

 

 次に、微妙な叙述トリック。「ラスト10ページ 衝撃は最後にやってくる」なんていう帯のせいで、この作品の魅力は損なわれていると思う。るーすぼーいは叙述トリックをいれなきゃならない的な強迫観念に取り憑かれているんじゃないか、とたびたび思う。でなきゃ、こういった作品に叙述トリックを盛り込もうなんて思はないだろう。はたまた、編集に無理強いされたのか。

 そもそも、叙述トリックがるーすぼーいの代名詞となったのは、車輪の国で衝撃を覚えた人が多いからだろう。エロゲと叙述トリックという、いまいち結びつきそうにないものを、結びつけたるーすぼーいの発想。故に、車輪の国ではじめて叙述トリックに触れたというエロゲユーザーも少なくはないのではないだろうか。そもそもの話をすれば、車輪の国よりも先に水夏ですでに用いられていたが、まあいい。閑話休題。しかし、以降、るーすぼーいが叙述トリックを効果的につかっていたかとなるとそうでもないと思う。エロゲで叙述トリックなんて、ミステリやサスペンスでもないかぎり一発ネタで済ませるべきなのだ。しかし、るーすぼーいはその後も叙述トリックをジャンル問わず、用いている。その横顔を見つめてしまう、G線、一人戦争。その横顔を見つめてしまうでちょっと外し、G線でもちょっぴり外した感を出してしまい、一人戦争ではうまくいく。ジャンルを問わないがゆえの叙述トリックの微妙さが、白蝶記でとうとう頂点に達してしまったように思う。るーすぼーいは巧みなストーリーテリングの持ち主なのだから、叙述トリックに頼らずとも、面白い話は書けるのだ。事実、「無能なナナ」にて、叙述トリック抜きで驚きの展開を見せてくれた。それでいいんだよ。

 

 白蝶記を読んで、「青の炎」を思い出した人は少なくはないのではないかと思う。愛するものを守るために殺人を犯すといった、物語の構図はほぼ同じだ。両作品、最後まで主人公は同じ思いを抱えつづけた。裏腹、迎えた結末は真逆のものだった。その要因はやはり、主人公の行いに他の人物がアクションを起こしているかどうかだろう。青の炎では主人公は自身の行いを警察に看破されたあと、殺人の影響が家族に及ぶことを防ぐために、命を断つ。その過程で、主人公を助けようとするものはだれもいなかった。それが、分かれ目となった。

 白蝶記では、主人公の行いが暴かれるが、その罪をヒロインが代わりに被ろうとしたり、また兄弟が日記に主人公の助けになることを記していたりと、互いが互いを助け合っていた。それが、爽やかな脱獄へと繋がったのだ。

 

 この作品は、るーすぼーいなりの青春小説なのだ。理不尽な環境下でのみずみずしい青春。微妙な読後感を覚えた人は、そういったこと踏まえて、もういちど読んでみるのもいいんじゃないでしょうか。