大仙の若葉

たのしいアフィブログ

こんな時代だからこそ「ファイト・クラブ」

 批評家共がこぞって絶賛している映画、「ファイト・クラブ」。どんな映画だと思い初めて見た数年前、ぶっちゃけあまり面白いと思えなかった。ブラッド・ピットの筋肉かっこいいなあ、ぐらいの感想しか浮かんでこなかった。が、気まぐれでもう一度見てみた。おもしろかった。自分でも「ええぇ……」って思った。あれ、こんなおもしろかったっけ?。

 一見して、「意味わかんねえ!!」となる映画ほど、言いたいことは思いのほかシンプルなのだ。しかし、シンプルなメッセージほどなんか説教臭くなってしまうため、いろいろこねくり回してちょっと難しい感じにしているだけなのだ。そういったノイズをかき分けて、自分なりの解釈をするのがこういった映画の楽しみなのだ、たぶん。その楽しみ方をこじらせると、爆発ドーン! 恋愛バーン! といった映画を小馬鹿にする面倒くさい映画ファン、及び評論家になってしまうのだ。いまいちよくわかんないけど、この映画が言いたいことってこういうことでしょ? くらいで問題ないのだ。という深い解釈ができないことの言い訳。

 なんで今回は面白く感じたんだろうと少し考えた。まっさきに浮かんだのが、主人公にめっちゃ共感ができたということ。物質的には満たされてるけど、心は貧しい。俺じゃん、と思った。でもきっと自分だけじゃなく、これはきっと現代人なら割と誰にでも当てはまることだと思うんだ。家具を買いまくるっていうのを、ソシャゲの課金に置き換えるとしっくりくると思う。これ買いたいっていう欲を労働の糧にできてる人って今すごく少ないと思うんだ。ただ惰性で働いている。働いている以上、お金が貯まっていく。使いみちがない。ソシャゲ。っていう感じだと思うのだ。課金云々ってのがけっこう言われてるけど、ソシャゲは良いはけ口になっていると思うんだ。ひと昔前なら、車なりなんなりがが欲しいって言うのを理由に働けたんだろうけど、車なんて今欲しいと思う人少ないから。仮に欲しいって思っても、今なら数十万くらいで買えちゃうから。もちろんアストンマーチンだとかデロリアンといったちょい高めの車が欲しいって思う人はそれを原動力に出来てるんだろうけど、そんなのは少数派なのだ。物で幸せになれない時代が来ているのだ。いかに心を豊かにするかといった時代なのだ。

 この映画から自分が受け取ったメッセージは非常にシンプルだ。

 『鬱屈を昇華して、生きてる実感を得よう』だ。

 物欲を原動力に働いていれば、仕事で嫌なことがあっても、「アレを買うためなら……!」って、なにくそとがんばれるが、惰性で働いていると、そういうふうに嫌なことを飲み込めない。だから鬱屈だけが溜まっていく。

 だからこそ、主人公にとっての『ファイトクラブ』なのである。序盤では癌やらなにやらを患っている人たちの集いの場が、鬱屈を昇華させていたが、変な女が来ちゃったから、ファイトクラブである。殴り合いを演じることによって、「痛いッ! ああ俺生きてるッッ!!」となり、ルサンチマンを昇華させる。現代だとネットでイキるオタクたちがそれに当てはまる。現実だと粋がれないから。でもネットならできる。だからイキるオタクをあまりバカにせずに、温かい目で見てほしいのだ。「ああ、嫌なことがあったんだなあ……」って。

 そういったルサンチマンを仲間内だけで、ファイトクラブの中だけで昇華させるならいい。それが現実に向かうとどうなるか。テロである。いや、まあ、ぶっちゃけそこまで過激なことは起こらないだろうけど、映画だからね?。溜めたルサンチマンが現実に向けられたらどうなるか、といったことも同時に描いた映画なのだ、とぼくは勝手に思ってる。