大仙の若葉

たのしいアフィブログ

ごめんね、スコセッシ「ディパーテッド」感想

 はじめてみたときは「よくもこんな出来に……ッ!」と、スコセッシとウィリアム・モナハンに殺意を抱いたものだ。好きな女を目の前で犯されたような気分だった。だから一時期自分の中で、このふたりはレイパーにカテゴライズされていた。が、ファイトクラブをはじめ、前は微妙に感じた映画が最近はなんだか面白く感じるようになってきているので、改めてディパーテッドを見てみた。普通に面白かった。すまんな、スコセッシ、モナハン。君たちは、もう強姦魔じゃない。さよなら、レイパー。

 インファナル・アフェアの場合は、仏教の概念に裏付けされた「死ぬよりも、罪悪感を抱えて生きる方が辛いよね~」というメッセージがあった。生、老、病、死。四苦。後ろの三つはともかくとして、生を苦しみにカウントしている。生まれてこなけりゃ、老いも病も死もなかった的な意味だと本田透が言っていた。つまり、仏教的な意味で死というのはある意味で救いなのだ。しかし、ディパーテッドではみんな死ぬ。そのせいで最初は「台なしじゃん!」って思ったんだけど、今回はしっくり来た。単に西洋と東洋の考え方の違いだね。インファナル・アフェアに対して「死ぬほうが辛いっしょ」っていう反論だね。掘り下げていけば「最後の誘惑」を撮ったスコセッシということもあり、キリストの考えとかに結びつけることができるのかもだけど、そっち方面に関しての知識は全くないのでなんとも言えない。

 インファナル・アフェアの場合、両者同じ思いを抱えていた。善人でいたいっていう。ヤンはさっさと警官に戻りたがってるし、ラウは警官である自分に愛着ができちゃっている。ラウの思いが確固たるものとなったのが、アンソニー・ウォンが死んだところ。エリック・ツァンに対して「殺すのはどうよ……」みたいな態度をとった。反面、自身の正体がバレそうになると、ヤンの身分を消して保身を図ったりする。ラウの善人でいたいという考えは、環境が許せばという非常に都合のいいもの。そして、その環境を作ろうとするためなら多少あくどいこともやってのける卑劣さを持ち合わせている。そのくせ同じ境遇のヤンに共感を覚えている。なんだこいつ。しかし、その共感は一方通行。ヤンからすれば、マフィアのスパイだし、自分の身分を消されたしで、敵としか思えない。だからインファナル・アフェアってラウのヤンへの片思いの物語とも言えるのだ。

 一方ディパーテッドの場合、ディカプリオはヤンと同じだけど、マット・デイモンの方は善人でいたいなんてひと欠片も思っていない。保身だけ。それが顕著に現れたのがコステロを殺す場面。ラウの場合は、過去との決別、アンソニー・ウォンを殺された恨みがあったと思うけど、マット・デイモンの場合はコステロが邪魔になったから。善人でいたいという思いの代わりにマット・デイモンにあったのは欲。ラウはヤンを、マット・デイモンはディカプリオを殺されたとき、その相手に抱いたのは、前者は片思いの相手を殺された怒り、後者はただ口封じのため。保身のために躊躇なく人を殺せるやつにとって、生きることは辛くない。死こそ罰になる。はずなんだけど、ディカプリオはマーク・ウォールバーグに証拠を渡してたから、それがあればマット・デイモンは逮捕に裁判と一気に生きることが辛くなる出来事が待っている。だからどっちに転んでもマット・デイモンは辛い目に合うのだ。

 マット・デイモンは死んで、ラウは生きた。インファナル・アフェアが、同じ思いを抱えた二人が辿る違う結末だとすれば、ディパーテッドは、違う思いを抱えた二人が辿る同じ結末となる。そういうふうに見ればなんかしっくり来た。